
6月辺りから調子が悪くなってきていたのはわかっていた。
ある日、診察の帰り道に新宿の山手線の駅にいた。4月に松沢病院から今の病院に移ったため、もう京王線八幡山駅とあの広大で独特の空気の流れる敷地、時間が滞ったような、現実感の無い待ち合いロビーが、もはや懐かしい。天井の低い、木造の古ぼけた病棟で隠れて煙草を吸ったことも、懐かしい。私は二人部屋に入居し、同室にいたおばあさんは痴呆なのか統合失調症のものなのかよくはわからなかったが、彼女は始終動かず何も発することなく横になっているだけだった。朝も昼も、静寂が支配しており、廊下を行き交いする他の患者とナースの足音が際立って聞こえるくらいだった。私は、殺してやろうとひたすら妄想していたが、まもなく退院した。
現在の病院は新宿にあるのではないが、西口から別の路線かバスに乗り継いでいくため、帰りはJR新宿駅の中央西口から山手線のホームへと向かうのが一番短い距離で、そこから階段を上がると、必然的にプラットホームの先頭にたどり着く。夏なのに、寒くて私は冬用のベージュのセーターを着ていた。ただ、ぼんやりと並ぶ白線の描かれたところに立った。電車は先程階段を上がる途中に到着し、駅を出発したらしく、後発の電車が来るまでしばし私は待っていた。とにかく私はぼんやりとしていてこの時分のことはもやのかかったようなもので、一人で何かをぶつぶつ言っていたような気もするし、笑っていたような気もする。
緑色の線が入った銀色のかたまりがシューッとやってきた時、私はそれを見て飛び込まなければならない、と本能的に思った。否、思うというよりも、万有引力や潮汐力のようなもので、まるで引っぱられているようだった。薬局でもらってきたばかりの薬が鞄に入っていることも忘れていた。飛び込もうとした瞬間、誰かに止められて、私ははっと気が付いてどうしていいのかわからず、そこから逃げた。
最寄の駅までの路線は、始発駅から出発するので電車はじっと私が乗り込むのを待っていた。平日の午後の、ラッシュ前の電車は比較的空いており、私は特急に座ることができた。眠ろう眠ろうと思って目をつむって眠りと覚醒の中間辺りをうろうろとしていると、駅に到着した。ホームに降りる時、「無事着いた」ことを確認すると、急に「山手線」の件を思い出して猛烈に後悔した。その後も、幾度となく後悔を繰り返して今に至り、のうのうと生きているわけである。
私は「死にたいのか」「生きたいのか」ということを、何度も自問し明確にしようと努力した。その度に、答えに悩む。「生きちゃってるし、死なないし」という本があるが、私はあまり共感はしなかった。ただ、彼あるいは彼女たちの、人生に対する放棄という姿勢は、絶望を通り越したものなのだろう、陳腐な表現だが「かわいそう」である。例えば人は悲しみや辛さと遭遇した時、誰かに電話をかけたり親しい仲の人に慰めてもらったりするわけだが、彼らは一人ぼっちで−中にはわざわざそれを報告する人もいるそうだが−リストカットやオーバードーズをする。腕や手首を刃物で切ったり、薬物を過剰に摂取したり、それらは肉体的に痛みを伴うのは当然であるが、なぜそこまでして自分を痛めつけるのか理解できない。無論、これはごく一般的な見方で、推測ではあるが回数を重ねるごとにそれが一種の習癖になっていき、おそらく彼らにとってそういった行為は人間が顔を洗うのと同じような感覚なのだろう。そういう意味ではアルコール依存症と相似を見出せるが、依存には「身体的依存」と「精神的依存」に二分されると禁煙の本に書かれており、アルコールに関しては前者が強いのだろうから、厳密に言えば異なる。(ちなみに、喫煙者に関してはどちらか一方である場合、複合している場合とあるそうだ)自分自身について話を戻せば、「死ぬべき人間」であることは間違いないと思っている。右頬をぶたれたら、相手の両頬を殴るような人間だからだ。
フェデリコ・フェリーニ監督の有名な作品で、「道」という映画がある。主人公の女の子が落ち込んでいる時に、出会った綱渡りの道化師に
「この世の中に役に立たないものなどないんだよ。例えばこの石ころにだって、何かの役に立っているんだ」
と説くシーンがある。キネマ旬報の評論によると、女子大生にアンケートをとったところ、映画の中でこのシーンに感動したという意見が非常に多かったそうだ。私はこの映画に関して、それまで粗暴で暴力という未熟な感情表現しかできなかったザンパノが、伴侶を失ったことに気付き、初めて「泣く」ラストのシーンが好きだ。それは、ザンパノが人間として覚醒することを意味するからだ。
それはともかく、私は誰かの役に立っているという自信が無いし、そういうのは明確な方法で証明できないだけに厄介な問題だ。根詰めて考えると「役に立っているかいないか」という疑問自体が意味不明というか、役に立っているかどうかで人間の価値が決まり、生きる資格が与えられるというのか、というところにたどり着くのではあるのだが、役に立っていなければならないという道徳観が強まって強迫観念になっているのは、極度の完璧主義者かあるいは病的な自信の欠損から来るものではないかと、なんとなく考える今日この頃。
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